HOME > 私たちが考えていること > 対談・座談会 > 対談「大震災を越えて立ちあがる」 小松治(プロジェクトK副代表)本田徹(シェア代表理事)
本田:今日はどうもありがとうございます。
小松:こちらこそお世話になっております。
本田:SHAREのホームページに対談のコーナーがあります。ざっくばらんにいろいろと、人々の健康のこととかお話しするという場でして、今回は小松さんをパートナーというか、対談の相手に選ばせていただいたわけです。まずはじめに、お生まれとか育ちなんですけど、気仙沼のお生まれでしたか?
小松:はい、そうです。
本田:そうですか。どんな子どもさんだったんですかね?
(一同笑)
尾崎:気になりますね。
本田:全くのやんちゃ坊主だったとか?(笑)
小松:あまり人には言えないような・・・(笑)
(一同笑)
本田:そうですか。ご自分の特徴っていうか、小学校・中学校時代とかどうですか?我が道を行くっていうか、自分がこうだと思ったら貫き通すというか、けっこう一徹なところがあったんですか?
小松:はい、そうでした。一徹で、もう言い出したら聞かないような・・・
本田:なるほど。あと何か、お父さんお母さんにお前はこういう子だから・・・.とかって言
われたこで、鮮明に覚えてらっしゃることとかありますか?
あるいは友達から言われていたあだ名とかで、すごい特徴的なこととか。
小松:先ほどの繰り返しですけども、言い出したら聞かない子どもでしたね。
本田:言い出したら聞かない。定評があったんですね。なるほど。
小松:最近は筋を通さないことが大っ嫌いな人だとか言われますね。
本田:そうかそうか。なるほどね。それは素晴らしいことだな。
ま、いっぱいお聞きしたいことがあるんですけれど端折っちゃいまして、何故、その保健とか福祉とかの道に進むようになられたんでしょうかね?きっかけというか、誰か影響を受けたとか・・・ありますか?
小松:実は私、高校の3年の時に部活で転倒をしまして。自転車競技部だったんですけども、バンク(自転車競技場)で転倒しまして、右肩の鎖骨を粉砕骨折しまして・・・
本田:うわー、かなり激しい運動部員だったんですね。
小松:えっと・・・何ヶ月ですかね、2ヶ月以上入院してまして、その頃から医療というか・・・
本田:あぁ、なるほど。看護婦さんが優しかったとか?(笑)
小松:そうですね。もう、天使に見えましたよね。(笑)
(一同笑)
本田:そうですか。医者に対するイメージはどうでした?
小松:当時、お医者さんは怖い、としか・・・
本田:あぁ、怖い、としか・・・うん・・・それで、まず看護のほうの道に進まれたわけですね、そこに留まらず、さらに勉強というか、精神保健福祉士って言うんですか?そこはどうなんですか?ご自分の問題意識の発展っていうところなんですか?
小松:精神科の中で看護業務を行っていて、どちらかというと、看護師が行うことっていうのは限界があるな・・・と、感じまして。
本田:あぁ、なるほどね。
小松:やはりソーシャルワーク・・・
本田:特に精神科ではそういうニーズが強くなりますよね。
小松:そうですね。そういうことで、そちらの道に・・・
本田:あぁ・・・そうなんだ。コミュニティに出ていくというか、まぁ、精神医療の中で、いろいろ懸念点はあるけれど、やっぱりコミュニティでケアをしていこうっていう流れにはなってきていますよね。病院に患者さんを長年閉じ込めておくような、古いタイプの医療から脱していかなきゃいけないっていう流れには、全体にはなっているというところはあるわけですね。
小松:はい、私が病院に勤めていた頃から、その様な流れは広がりを見せていました。
本田:さて、現在はケアマネジャーとして仕事をしているわけですが、実際にそのケアマネジャーをやっていきたいと思うようになられたことについてですが、それは何か動機がおありなんですか?
小松:実は、東北福祉大の阿部先生からの影響です。私が准看護師の資格を持っていて、精神保健福祉士も持っていたので、保健・医療・福祉の3つの資格を取っておいた方が良いということを阿部先生から話されました。保健は精神保健福祉士、医療は准看、介護分野としては、介護支援専門員(ケアマネジャー)の資格を取って、3つの資格を持ってれば、将来役に立つよ、ということを言われました。
本田:あぁ、そうですか。阿部先生からのアドバイスということなんですね。
小松:そうなんです。
本田:比較的、ケアマネジャーっていうのは独立性の高い業務ですよね?
小松:はい、そうです。
本田:看護師・・・病院の看護師とか、やっぱり医師の指示に従ってとかっていう制約が出てしまうし、精神保健福祉士の場合はどうなんでしょうか・・・地域に出れば、わりと独立的に働けるところもあるのかもしれないけれど・・・
ケアマネジャーになられたのはいつでしたっけ?
小松:えっと、今から9年前でしょうか。
本田:介護保険が始まって、まだそんなに経ってないですね。2、3年目くらいですよね。その当時からの、つまり震災前の、気仙沼地域の保健・医療・福祉・介護の状況ってどんなだったんですか?
小松:えーっと、他の地域と比べて大きく違っていたのは、医療との連携が全く取れていないっていう地域でした。
本田:他の地域では、三陸沿岸でも、わりとそういう連携が取れているところもあったんですか?
小松:そうですね。南三陸町に関しては、町立の病院の先生方がケアマネを常に呼んで、いろいろな連携を取っていた地域ですし、あとはお隣の登米市に関しましては、登米市立佐沼病院で、定期的にケアマネ、福祉関係の方を集めて定例会議とかを開いておりましたので。
本田:ここは、そういう面では、多職種間の連携・協力が、あまり進んでいない、充実していないという弱さもあったわけですね。
小松:そうですね。
本田:実際にこの震災が起きてしまって、震災そのものは自然の災害だからやむを得ない面もあるんでしょうけど、そこで、そういう連携がないということで露呈してしまった問題っていうのは、どういうことが大変でしたか。震災そのものも大変なんだけど、そこでやっぱり、これじゃいけないなと思うようなところってありましたか?
小松:巡回療養支援隊が発足して、先生方が一生懸命動いていただくのは、非常に助かったんですけれども、その中で、ヘルパーであったりとか、患者さんの日常生活を支えている職業の方々を、全然無視して、先生方が入られてきたという状況がありまして、全くケアマネにも連絡も無く動いていた、という現状がありました。
本田:それはどうなんでしょうかね・・・非常事態でやむを得なかったとは言え、寄せ集めチームというか、いろんな県から応援が入ったりして、ある程度、コーディネーションを取ろうという努力はあったんでしょうけども、やっぱり医師中心でやってしまったっていうところの裏目というか、弊害みたいなものがあったんでしょうかね・・・
小松:医師の中にも、ケアマネージャーの存在をきちんと分かっていただける先生が、コーディネートしていただければよかったんでしょうけども・・・なかなかそこまではいかなかったようですね。
本田:あ、その段階ではね。・・・
小松:あまり介護保険のことをご理解されてなかったっていう現状も・・・それはご自身で仰っている先生もいらっしゃいましたので。
本田:その意味ではコーデイネータ役の先生も驚くべきスピードで学習していったんですね。
小松:そうなんです。はい。
本田:すごいですね。その熱意と学習欲は立派なものですね。何となく医療の側が、そういう、地域で患者さんやクライエントの家庭に入ってきちんとサポートしている人達の存在というものを、理解してくれてなかったという面は、やはりちょっと、以前からの引きずってきた問題というか、弊害が出ちゃったというところがあるわけですね。
小松:えぇ、そうですね。
その中でもう1つは、やはり福祉用具の問題があります。ボランティアで入ってきた方々が、どんどんどんどんいろんな物を持っていて、エアマットであったりとか、持ってこられました。ありがたいことではあるのですが、でも、地域のレンタル事業所だって、そういうサービス分野はもう復旧をしていて、いくらでも物を納品できる状態なのに、どんどんどんどん皆さんが無料で置いていった為に、レンタル事業所が疲弊していくような状況でした。
本田:その辺はやっぱり小松さんなんかが頑張って声を上げて下さった結果、医師会の先生とか、あるいは療養支援隊の先生達も気付いて、ちょっと行動を改めていくというような動きが出てきたわけですかね。
小松:そうですね。支援隊の中で最初に私がその話をした時は、ほとんどの皆さんは「何を言ってるんだ」というような反応でした...
本田:狐につままれた感じだった・・・
小松:えぇ、そうでした。実はその状況の中で私たち地元の介護・福祉事業者の後押しをしてくださったのは大木幸子先生(杏林大学保健学部・保健師)だったんです。皆さんの前で大木先生が同じようなことを言っていただいて、それで何となく皆さんも信じていただいた、という・・・
本田:そうか、なるほどね、分かりました。
それで、まぁ、そういういろいろな学びもあって、震災救援活動も急性期をある程度脱して、急性期からさらに復興期に入ってきて、プロジェクトKというものがようやく立ち上がってきました。このプロジェクトKというものは、今までのいろいろな経験を踏まえて、どういうことをこの地域で実現したいと思って、小松さん達は始められたんでしょうかね?
小松:特に重視したいのは、生活支援という視点を大事にしたいと思ってます。
「生活」は「生きて活動する」っていう・・・その中で、生活の中に医療が必要な時期があったり、保健が必要な時期があったり、福祉が必要な時期があったり、いろんな時期があると思うんですけれども、それを専門職が集まって、きちんとその方の生活を支えていくっていう、それを大事にしています。
本田:あくまで医療というのは生活の中に位置づけられて、その中での役割というものを謙虚に果たしていくという姿勢が必要なわけですよね。
小松:はい。
本田:あとはどうですか?例えば、私達は東京から来ているのですが、大泉樹さん(医師・どさんこ海外保健協力会)は北海道出身で、今も北海道の地域医療に取り組まれています。北海道には北海道の大変さがきっとあるのでしょう。東京なんかだと、とりあえず医療にしても福祉にしても、社会資源的には必要があればなんとか充足できるというか、要するにサプライするほうに関しては、わりと潤沢にあるというか、代替できるころもあります。もっとも、私が働いている山谷地域などは、医療崩壊になりそうな感じもあり、地域的なポケットはありますが、全体的にはかなり必要な時に必要なサービスが提供できるっていう態勢があるんですけど、気仙沼地域だとどうなんですか?生活支援をしていく上で、例えば、どうしてもこのデイサービスの部分をもうちょっとやってあげたいと思っても、実際にそれを提供してくれる人がいないとか・・・今回、南三陸訪問看護ステーションの遠藤所長のところにご挨拶に行ってきたんですけど、やっぱり老人保健施設だとか、ショートステイの施設とかそういうところもけっこう被災しちゃっていて、なかなか必要な時に必要なサービスを提供できなくなっているという問題もあると聞いたんですけれども、そういうところに関しては、何か展望というのか、生活支援をきっちりとやっていけるような、社会資源っていうのは確保できそうですか?
小松:訪問介護であったりとか、訪問入浴、デイサービスに関しましては、既存の事業所だけで十分賄える状況になっておりますので。
本田:それは一時的に震災の後、ダメージを受けたけれども、もう立ち上がってきているということですか・・・?
小松:立ち上がってきております。実はこの地域に足りなかった訪問看護ステーションに関しましても、震災後2つ増えまして・・・
本田:今度3つになるっていうような話も。
小松:大島を含めて4ヶ所になりますので。
本田:これって、逆に多すぎちゃって過当競争とかいう心配はないんですか?
小松:あり得るかも知れません。この人口ですので・・・
本田:しかも利用者が減った状況の中で業者が増えちゃったっているとは、ちょっと、すごい皮肉ですよね。
小松:ただ、リバーサイド春圃さんに関しましては、訪問看護7(介護保険のサービスコードの一つで、訪問看護ステーションの理学療法士、作業療法士、言語聴覚士が訪問して行うリハビリテーションの事」)というリハビリも行っていますので、ある程度のすみ分けが出来るのではないかと・・・。
本田:じゃぁ、訪看ステーションも大丈夫ということで。それからショートステイとか、宿泊・滞在系のサービスに関してはやっぱり・・・
小松:不足しているところはショートステイだと思いますね。
本田:老人保健施設なんかも、ちょっと足りない・・・
小松:そうですね。被災をしたリバーサイド春圃さんが8月1日から、同系列の光が丘
保養園さんを借りてショートステイ機能を復活させましたので、そこが徐々にうまく稼動していけば、いくらか埋まるのかな、と。
本田:光が丘保養園っていうのは、元々何をやっている施設なんですか?
小松:精神科です。
本田:あ、精神科・・・。ショートステイも受け入れていたんですか?
小松:いえ、保養園という名前ですが、精神科の病院ですのでショートステイ機能はありませんでした。リバーサイド春圃さんと同系列でしたので、そこの病棟の一部を借りて。
本田:あ、病棟を借りて、ね。老人保健施設が、病院の施設を借りてショートステイ型のサービスを再開したわけですね。
小松:はい。そうです。
本田:私の方ではとりあえず伺いたかったのは、これぐらいでなんですけど・・・
大泉さん、何かご質問ありますか?
大泉:そうですね。小松さん、もう震災から半年、今までと全然違う、僕らのような外から来た人間と付き合っていただくことになって、生活ががらっと変わりましたよね。何かその辺ってどうですかね?今までの人生の中で違う局面ですよね。期待しなかった状況ですけど、こうなっちゃって、こんな生活になっちゃって・・・忙しいのはもっと忙しくなっちゃって・・・どうですかね?
小松:そうですね・・・忙しいのは本当に忙しくはなってしまいましたし、生活が一変したのは、自宅も流されましたし、今、仮設住宅に入っておりますし、今まで贅沢をし過ぎたのかなっていうのは、すごく感じています、実は。
「ものがない中でも、何とか生活できるんだな、不必要なものがたくさんありすぎたのかな、世の中に」、って、逆に思うようになりました。食べ物然り、いろんなもの、本当はこれは必要ないんじゃないかというものがいっぱいありましたね。
震災後は本当に、そんなに苦労して、今すぐ欲しいというものは実は少なかったですね。そのことに気づかされて、人生観変わりましたですね。
写真:向陽高校脇に流れ着いた小松さんの家
本田:尾崎さん、何かありますか?
小松さんとは、あまりにも普段身近に接し過ぎてて、改まってこんなこと聞いてみたい、とか思い浮かびづらいかも・・・
尾崎:んー・・・、ちょっとまたあとで茶々入れさせて下さい。(笑)
本田:村上さん・・・本田です。よろしくお願い致します。
村上:よろしくお願い致します。
本田:どうなんでしょうかね、村上さんのほうでは何かありますか?
村上:何か・・・んー・・・
本田:ないですかね。地元同士っていうところもあって、少し照れてしまいますかね。
では、小松さんにあと2つだけ、お聞きしたいんですけど・・・プロジェクトKも含めて、SHAREに期待したいこと、というところで、率直なご意見をいただきたいのです。今までの私達のお付き合いの仕方とかで、もうちょっとこういうところを改めたら、あるいは気付いてくれたらもっといいんじゃない、っていうところとか、あるいは今後プロジェクトKのパートナーとして、我々がお手伝いさせていただく上で、要望というか、もしあれば・・・お聞かせください。
小松:要望というよりは、プロジェクトKの村上さんともよく話をしているのは、「ありがとうございます」の一言しかないんです、実は。
本田:もっと辛口のことを・・・
(一同笑)
小松:本当に、他のNPO・NGOと違う、とか言っていいんでしょうかね・・・?
他のNPOの方々は自分達の成果を何とか上げたいというような意図が、ありありと前面に出てまして、地域の方を抜きに、地域の意見を聞かずに、自分達にはこれができますっていうのを前面に押し出して入ってきてる方々が多いものですから、そういう中では、我々の要望を聞いていただいて、そこで調整していただきながら、我々のバックアップしていただけるっていう体制で支援していただけるのは、非常に、本当にありがたい・・・
本田:ありがとうございます。
小松:他のNGOさん、NPOさんが集まった会議でも、気仙沼市の誰かがこういうニーズを出しているのでこれをしましょう、というような話が全くないんですよね、実は。NPO側が、「これがやりたい」「あれがやりたい」「これができます」っていうことで発言される・・・
本田:セルフアピールみたいな感じですよね。
小松:そういう意味では、本当にこんなに我々の意見を取り入れていただいて、自由に動かせていただいていいのかな、と思うくらい・・・
本田:本当に自信がないんですよ、シェアには・・・、ある意味では。(笑)
どうもありがとうございます。他に何か気付いた点があれば、また後ででも、いただければと思いますけど・・・
最後に、これも改まった聞き方で申し訳ないのですけれど、村上さんの人生観っていうか...村上さんじゃない・・・ごめんなさい・・・今日は小松さんのインタビューなんで・・・、村上さんには機会を改めてゆっくりうかがいます。
(一同笑)
本田:小松さんのことをSHAREのホームページにインタビューで・・・
何かご自分として大切に、頑固であるっていう、一徹であるっていうことは、さっき仰ってましたけど、そういうこととはちょっと別に、自分の人生の中で大事にしていることとか、考え方とか・・・どうでしょうか?何かありますか?
小松:できるだけ皆さんの話を聞きながら、柔軟な対応をしながらも、どこかに芯を持って・・・曲げたくない部分は絶対曲げない、そういう思いを大切にしています。
本田:わかりました、どうもありがとうございます。
とりあえず、この辺でとりあえずまとめさせていただくことにいたします。
尾崎:家族とかもあって、本業もあって、それでもプロジェクトKとか、ああいうボランティア的な、無償の仕事にパワーを注ぎ込める何かって、何なんですか?支えてる何かって・・・
小松:今回の震災に限って言えば、震災後の自分の体験ですよね。酷い惨状を見て、これを何とかしなきゃいけないっていうのと、子供達の将来を何とかしたいっていう思いが一番強いですね。避難所で行われた卒業式とか、今でも涙が出てきますけど・・・
本田:ちょっと遅れた卒業式だったんですよね?
小松:10日遅れましたね。避難所の隅をみんなで片付けて。
本田:しかも、私もブログに書かせていただけいましたけど、息子さんは辛くも助かったんですよね。ちょっと間違えて家にいれば助からなかった可能性ありますよね。美容室に行って流されちゃった女の子とかね・・・
小松:そうですね。昨日行われたプロジェクトKのオープニングイベントに来ていた高校生2人の1人は、実は父親を亡くしてるんです。卒業式の時もまだご遺体が見つからずに・・・
本田:一応、ご葬儀は済ませたんですかね?
小松:卒業式の後にご遺体が見つかったんですけど・・・その中でも気丈にずーっと振舞って・・・
ああいう姿を見てると、我々大人がきちんとして何かしなきゃっていう思いが強くて。そんな中で仮設住宅がどんどん校庭に建っていって、遊ぶ場が奪われていって、球場にも仮設が建って・・・みんな、子供達の為のものが全部奪われていく中で、これは何かしたいと、これから未来を担っていく子供達が気仙沼から離れていくのが目に見えますので・・・原動力は、一番はそこかもしれませんね。あとは、亡くなった方へのエンゼルケア(ご遺体に加えるケア、処置))を十分にできなかったり、怪我をされてきた方々に十分な治療もできなかったし、何もできなかった歯痒さというか・・・そういうのをこう・・・その無念の思いを今、生き残ってたいへんな思いをしている皆さんに、何とかしたいというか・・・何て言えばいいんでしょうか、表現がうまくできないんですが・・・
本田:いやぁ・・・、私、小松さんの話もすごかったんですけど、もう一方(ひとかた)、ご存知だと思うんですけど、南三陸町の介護支援事業所、ひなたぼっこの三浦さんっていうケアマネージャーさんね、彼女の話も聞くも涙でしたよね・・・連れ合いの方が流されちゃって、その旦那さんのお母さんも行方不明で・・・旦那さんのご遺体は見つかったそうですが、義母の方のご遺体は見つかったのかな・・・彼女はご主人と地震の直後に、携帯メールでやりとりされたとかで、そのとき自分のためにメールを送ってくれる数分のために夫は逃げ遅れたんじゃないかと後で思うと、悲しくて、悲しくて、すまなくって、とご自分を責めていらしたですね。ほんとうになんと言ってあげるべきか言葉を失いました。それでも三浦さんは、仕事しないと、かえっておかしくなっちゃいそうだし、患者さんたちは待ったなしだからって言って、気丈に頑張っていらししたですけれどね・・・
小松:私も実はご自宅に行ってきまして。
本田:彼女、元気でやってますか?
小松:はい、今日も元気に事業所に来ました。
本田:あぁ、そうですか・・・よろしくお伝え下さい。
彼女と一緒に訪問させていただいたたAさんという歌津の患者さんも、つい最近亡くなられたと聞きました。患者さんはおばあさんで、ご主人も高齢なのに、隣のベッドに付き添い終日看取りをされ、お嫁さんも実によくできた方で、お孫さんたちも含めて、すばらしい在宅介護をされていました。今の東京などでは願っても決してかなわないような、うるわしい家族という感じでした。
小松:震災の体験談は本当に胸に迫りますね。昨日4人で飲みに行ったんですけども、やっと今になって、みんなが語り始めましたですね。ある友人ですが、彼とも、これまで震災の話はまったくしたことなかったんですけど、昨日初めて話してくれました。自分の工場から逃げて行く途中、人がどんどん流されていくのが見えるんですね、「助けてくれ」って言いながら。屋根の上に上ってた女性がいて、近くにあったホースを投げたらうまく届き、それにつかまって流されないようにしてもらい、たまたま近くに7メートルくらいはしごがあって、そのはしごを架けて、彼がそれにのぼって助けに行ったんだそうです。そして、女性を抱えはしごを登っている途中で「あ、子供の手を離しちゃった」ってお母さんが言ったんだそうです。あぁ・・・自分、何てことしちゃったんだ...って、ずっと思ってたみたいです。そのときは、子供の姿に気づいていなくて、女性を救うことに必死だったわけです。その子をきちんと見てればその子も助けられたんだろうって、彼は悔やんでいるわけです。・・・
本田:その母親は助かった・・・?
小松:助かりました。助けた人間も心に傷を負ってるんですよね。
そういう思いを今からどんどん、みんなが言える時期が来るでしょうから、それを聞くのも、我々プロジェクトKの役割なのかな、と昨日改めて思いました。
本田:ほんとうにありがとうございました。
(2011年8月29日気仙沼で収録)
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