東ティモール独立闘争を経て、平和の道を歩む

東ティモールは、2002年に独立した国です。これまでインドネシアやポルトガルに占領され、第二次世界大戦では日本軍が占領していました。東ティモールが独立を勝ち取るまでの道のりは困難で、長い独立闘争、サンタクルスの虐殺事件(1991)、独立投票選挙にともなうインドネシア兵の破壊・襲撃行為(1991)といった辛い歴史を経ています。
一緒に活動をする東ティモール人スタッフ、地域の人々にとって独立闘争はそう遠くはない過去で、大人であれば誰もが持っている記憶です。
ドライバーのアジェさんにお話を聞きました。

子ども時代

東ティモール
インドネシア軍が東ティモールに来た1975年頃*1、ビケケ県に暮らしていた私の父と母は森の中に逃げました。私が産まれたのはこの年です。私は4人目の子どもです。それから大きくなって1年生として学校に行くようになったのは13歳の時でした。5年生になる時まで学校に行けたのですが、それからは行くことができませんでした。状況が厳しくなったからです。その頃、お父さんの弟達が林の中で戦っていて、弟がインドネシア兵を撃ちました。それでインドネシアの人達に自分達の家族は悪い奴らだと見られるようになりました。
インドネシア民兵とインドネシア軍にSALAMAT PAGI(こんにちは)とインドネシア語で言わないと殴られました。こういうことが続き、私は状況を打開しなければならいと思い独立に向けた運動に加わっていくようになりました。

独立闘争が激しくなるなかで

東ティモール
私は運転を覚え、乗り合いバスの仕事を始めました。1990年頃は運転手として働いていました。その頃、独立戦線の人たちの活動が徐々に活発になって行きました。私は運転の仕事をしていた事もあり信頼されていたので、薬を集めたり、コーヒーを買ったりして、そういったものを独立活動のゲリラの人達に運ぶ活動を行うようになりました。そのうち、毎晩そういうものを運んでいるという事がインドネシア軍に見つかって目を付けられ、ビケケ県から身を隠さなければならなくなりました。
1998~1999年頃の事です。ビケケ県から首都のディリまで、山の中の長い道のりを歩いて逃れました。もし、インドネシア軍に見つかったら、死ぬしかないような状況でした。だから誰ともコンタクト取らずに慎重に行動し、2週間かけてディリに辿り着きました。15人の仲間と逃げましたが、途中で2人はインドネシア民兵に捕まり殺されてしまいました。ディリにいる時私の友人がやってきて、「ビケケに戻って来ると殺されるので、このままディリにずっと居て戻って来るな」と言いました。だから、私は東ティモールから逃げる事を決意しました。

インドネシアのアタンバに逃れて

東ティモール
インドネシアの西ティモール(ティモール島の西半分。現在、西ティモールは、インドネシアの東ヌサ・トゥンガラ州の一部)のアタンバという国境の町に行き、6ヵ月そこで暮らしていました。東ティモールの情報を得ることができず、私からも連絡をすることができず、とても厳しい日々が続きました。本当に大変な時代でした。3人の小さい弟達がどう過ごしているのかとても気がかりでした。家族の中で私一人だけが東ティモールから離れていて、辛くて毎日お酒を飲んでいました。アタンバのヤシ酒です。
1999年、アタンバで国連軍とかPKOとかが入っているのをテレビで見ました。国際社会が助けてくれるので、これで東ティモールに帰れると分かり嬉しかったです。東ティモールに帰りたいとアタンバの神父さんたちに訴えていると、協力してくれる人達が出てきました。教会関係の人達から、「独立投票でどちらを選ぶのか」と聞かれ時は、「私たち家族は皆、独立を望む」とはっきりと答えました。神父さんは、「もしその話を他の人に伝えたらきっとあなたは捕まって殺されるでしょう。あなた次第ですね」と言いました。インドネシアの西ティモールでしたが、教会は東ティモールの独立を応援していました。

独立投票のために故郷へ

住民投票登録の締め切りが近づいてきたので、急いで東ティモールに向かい1999年7月にビケケ県に戻って来ることができました。アタンバにいる間は連絡が取れなかったので、家族はみんな死んでいるかもしれないと思っていました。ですが、家族はみんな無事でした。
私は朝、投票の為の登録をしに行き、その後畑に行くと家族が居て凄く嬉しかったです。両親は、色の黒く背の高いヒョロッとした人が死んだと聞くと、それは息子かもしれないと思っていました。毎日毎日、母は泣いていました。父は、もしそれが自分の息子だとしてもしょうがない事で神様に祈るだけだったと、私がアタンバに避難している間のことを話してくれました。
私は、自分の投票登録を終えた後、周りの人達、特におじいさんの世代で政治とか投票について良く分かっていない人達に、独立をするため、また子ども達の未来のために投票をしに行こうと呼びかけました。人々は分かったと言ってくれました。

独立

東ティモール
私はその後、東ティモール大学の学生と一緒に、地域住民の人たちに独立を支持するように働きかける活動を行うようになりました。教会やコミュニティの人達に対して、政府について、東ティモールの未来の事、インドネシアを選ぶか東ティモールを選ぶか、説得活動を行いました。このような事が全部の県で行われていました。
しかし、こういった活動は危険で、8月2日にはインドネシア民兵が私達を捕まえに来て、2~3時間銃撃戦になり私達は石を投げたりしました。また、インドネシア軍に襲われ、2~3人が亡くなる事もありました。私には2人従兄妹がいましたが、1人は撃たれ、1人は足を折られて殺されました。時には2~3日の間逃げ続けた事もありました。東ティモールの人達からもインドネシア民兵と間違えられる事がありました。独立運動を率いていたゲリラに、インドネシア民兵と間違えて捕えられ顔が腫れるほど殴られた事もありました。
特に私は、グループのリーダーをしていた事もあり疑われました。私がインドネシアから来たので皆を扇動しているのではないかと疑われたりもしたので、私はインドネシアに逃げていたけれど、インドネシアと戦う為にここに戻って来た、みんなの仲間だと説明をしました。また、私を殺すのは良いけど、それで東ティモール人は勝てるのかと話をしました。独立を選ぶのかインドネシアに従うのかを訴えました。

これまで生活はとても貧しかったのですが、皆、自分達の国を作る為にいろいろと活動をして来ました。父や母の時代も東ティモールを勝ち取る為の活動として人を殴ったり撃ったりした事もあったので、私達はそれを引き継いでやりました。銃の弾が無くても、石を代わりに投げて東ティモールに平和をと叫びました。
インドネシア民兵と間違えられて捕まったり、スパイが居たり、お互いを疑い合う様な情報が流れていました。戦争は誤解などで人が辱められる事が有ります。また、インドネシア人だけに殺されただけでは無く、東ティモール人同士で争い殺された事もありました。
コミュニケーションが取れなかった事もあり、味方をインドネシア人だと思って撃ち、後で気づく事も多々ありました。東ティモール人同士の中でも憎しみ合いがありました。この戦いはお互いが敵では無くて独立を得るための戦いだったのです。

自分達の責務は、いま自分達は苦しんでいるが、子ども達が将来こんな危険な目をする事無く、無事に成長して行ける事なのです。

私は平凡な人間ですが、東ティモール人としてこの国を良くして行く活動をして行かなければいけません。



以前、東ティモールは1つの州としてティムール・ティモールと言われていました。もし独立できればティモール・レステと言う自分達の国名を使う事ができますし、自分達のリーダーを置くこともできます。それが自分達の国を持つと言う事になります。
もし、独立を選ばなければ、昔の様にオーストラリアやインドネシアの時代の様に他の人達に自分の国を牛耳られ乗っ取られてしまいます。自分達はお金がないけども、自分達の国を持てることは誇りを感じられます。これが凄く大事な事で資金が十分に無いと言うのは大きな問題ではありません。

独立、そして家族と共に

東ティモール学校保健プロジェクトで訪れる小学校の生徒たちとアジェさん。
ビケケ県に戻って住民投票を終えた後、民兵が村にやって来て家々を焼き払いました。逃げない人は殺されたりしました。住民が独立を支持したと思い込んでの行為(東ティモール紛争*2)です。私達は森の中に逃げ込んで難を逃れました。住民投票の結果はその後、その森から町へ戻ってから聞き、90%ほどの独立への支持があったと知り大変喜びました。民兵は銃を撃ったりしましたが、投票の結果を受け入れた様子でした。当時私は20歳になる頃でしたが、結果を聞いてサッカー選手の様にガッツポーズをしながら一晩中泣いて喜びました。
フレティリン*3という今の政党の前身にあたる人達が来て、独立に向けた仕事をしたいかと尋ねられ、例え木を拾う仕事でも水を運ぶようなことでも、どんな仕事でもやりたいと答えました。彼らに東ティモールは独立すべきかを再度尋ねられ、勿論独立すべきと答えました。今までの戦いはその為であり、独立すべきでないなら他の所に逃げていただろうと答えました。2ヵ月の間、フレティリンの警備の仕事をしました。
しかし、11月になりビケケ県に戻りました。家族に会いたいし、好きな運転手の仕事も再開したかった。育ての親で母親に値するような人が見つかっていませんでした。その人はインドネシア兵に殺されて死んでしまったのか、今でも会えていません。農業をやっていた両親は教育も受けていなかったが、私に家族を大事にすることや言葉やモラルを教えてくれました。大事だった国の仕事を辞めたのは、それ以上に家族のことを考えたからです。

1:1975年11月28日フレティリンが東ティモール民主共和国の独立を宣言。これに対し、11月29日インドネシア軍が東ティモール全土を制圧。翌1976年インドネシアの27番目の州として併合しました。
2:1999年8月30日、独立に関する住民投票(投票率98.6%)が行われました。9月4日に発表された投票結果では、自治拒否78.5%で、特別自治権提案が拒否された事で独立が事実上決定しました。9月7日、インドネシア治安当局は、東ティモールに非常事態宣言を発令し破壊と虐殺を行いました。
3:ティモール独立革命戦線。1974年、ポルトガル統治からの解放を目指して創設されました。1975年からはインドネシアに対する武装闘争を展開。独立後は政党となりました。

アジェさんは現在、6児の父となり、東ティモール事務所のドライバーとして働いています。
山岳地域は道路事情が悪く、小学校に辿り着くのも容易ではありません。道に穴があいていたり、雨季になると倒木やがけ崩れで道が寸断されることもあります。 時間に正確で、忍耐強いドライバーは活動になくてはならない存在です。 困難な状況でも忍耐強く、そして丁寧に仕事してくれることで、保健活動を行うスタッフは学校での保健教活動に専念することができるのです。

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